― はじめに、この仕事に入った動機をそれぞれ語っていただいて。
もともと社長はドラムス、山下さんはベース、草野さんはギター、石丸さんもベースでしたよね。
山下:自分は学生時代にアマチュアバンドをやっていて、社長が仲良くしていたグループのバンドにオーディションへ行くわけですよ。ところが最初は落とされるのね、へたくそだから。
― 社長とはその頃から?
山下:社長(竹内)がそのバンドに助太刀でドラムとして来てからだから、もうちょい後ですけど。いろいろしごかれましたよ。
草野:何10年ぐらい前の話?
山下:だから、大学2年とかで…。20年?1985~1986年だから30年くらい前。とにかく最初は落とされてね、譜面も読めないし、当時ちょっと上の世代のベースにもの凄く上手い人たちが揃っていて…。でもそのうち「山下、若いし、いろいろやってみるか?」とか言ってもらって、一緒にやるようになって。
― その頃の音楽状況って?
山下:当時はオリジナル演ってたバンドがあって、ハードロックテイストのサウンドが結構流行っていて…自分はハードロックが大好きだったけど、社長たちのバンドに行ってみると、超歌ものバンド!AORやFusionテイストで、自分は繊細なビートが全然カラダに入ってなくて「お前、ダメだ」ってなって。まあ、そっからのスタート(笑)
で、社長がやってたバンドのアレンジャーさんのボーヤをやるようになって、あれ、23~24くらいでしょ?
― 長いんですね、お二人は。
竹内:そうですね。
山下:草野と最初に出会ったのも大学生ぐらいの頃だったもんね?
草野:そうですね。何年経つかな…25~26年?まだ19歳!未成年!
竹内:最初、高校生だったもん。
草野:はじめは、そのアレンジャーさん(山下の後を引き継いで)の荷物持ち。ボーヤっていって。機材を運んで。その後その人が自分の音楽をやりたいって話の時に、若いやつもほしいっていうんで遠巻きにいた僕が…。当時、僕は一所懸命、多重録音とかやっていて、あいつ頑張ってるなって思ってくれたのか「こんなオーディションの話があるけど…。」って声かけられて、行った先にいたの。この人たちが…(笑)
山下:その時ってまだメタルとかやってた?
草野:完全にハードロックな人。おれ、セブンスって何?って(笑)コードの概念がない。1度5度でしょ、みたいな(笑)
竹内:ハードロックだからか(笑)パワーコードのみ、みたいな。(笑)
山下:アマからプロに行くときの違いってね、そういうところなんですよ(笑)
そんな概念なくても演奏できちゃうけどね。
― 女の子にモテたいとかそういうのはあった?
山下:それは当然でしょう(笑)バンドやるからには。
草野:俺も、あった(笑)
竹内:そうですね(笑)
山下:当時はね、女子大とのお付き合いとか、そういうのもあってね。合コンというかバンドで仲良くなったりね。
― 石丸さんだけ、そういう感じじゃないですね?
石丸:僕、ミュージシャン上がりじゃないからね。つい最近入ってきたあれなので、ちょっと歴史が違って…。
― アカデミックな興味しかないとか?
石丸:若い時は、それは皆さんと一緒で、バンドやってたしね、一緒ですよ。
― いつ頃までそんな感じで?
山下:20代半ばまでですかね、そこから先はもう仕事になってきちゃうから。
竹内:音楽に対しては真面目でしたよ、やってる音楽はふざけてましたけど。まず、とにかく派手なバンドやりたくて「おたっしゃクラブ」っていうバンドを作って、バンバン歌っていくうちに、すごい評判になって都内の大学から学園祭のオファーいただいて、学園祭ツアーをまわってね。
― 社長もメンバー?
竹内:そうです。先代の社長と一緒にやっていたバンドで、それが発端。
山下:そう、だから、先代の社長と竹内っていうのはもう最初っから一緒。
石丸:「おたっしゃクラブ」の時は何歳だったの?
竹内:18歳とか…。
一同:えぇ!?
山下:だって社長も大学1年でとかだったから。
石丸:大学生で…。
竹内:見良津さん(先代社長。以下先代)はそういえば石丸さんの勤めていたBGM会社でバイトしてたよね。録音テープぐるぐる巻いてた。
― オレ、本当に音楽に向き合ってるな~って思ったのは?
竹内:そのころは、やっぱり、もがいてただけ。ひたすらもがいて。それでCD作る話をいただいて横浜銀蠅の嵐さんという方が、結構目をかけてくれて、TV番組にも出そうだったんですけど、結局やっぱりムリで。それでまた別のバンドを作ったんだけどうまくいかず…。その後それぞれプロの世界で行けるとこまで行ってみようってことで、先代は田原俊彦のギター、ベースもそこで、キーボードはシブガキ隊に行って、俺自身は、新しくデビューするバンドのオーディションに受かってデビューしちゃって…。
― バンドって組んじゃ、解散してっていうのが…?
竹内:そうですね、ありますね。バンドだけで生きていくのが理想なんですけど、飯が食っていけない。だったらせめて音楽で自分の腕でお金を稼げないか?という部分があって。
― 社長のバンドデビュー話しを少し聞かせてください。
竹内:バンドとしてポニーキャニオンさんからデビューした時、初めてのメジャーの業界だったので見るもの全てが衝撃でした。レコーディングやスタジオ、エンジニア、エンジニアアシスタントのパンチイン~アウトの妙技!
石丸:あの時代は職人技を駆使する凄腕エンジニアがいましたね。
竹内:お恥ずかしながら1stシングルは演奏させてもらえず、チキショーと叫びながら現場へ。そしてすごすぎてびっくり!作詞:阿久悠 作曲:都倉俊一 編曲&B:後藤次利 Gt:北島健二 Dr:岡本郭男 Key:難波弘之 という豪華メンバーではないですか!
山下:このプレイヤー諸先輩方はボーヤ時代にスタジオでよく見かけた方々ばかりですわ!一流の方々ばかり…
竹内:初めて見るメジャー楽曲制作がこれだったわけで、ただただ唖然とするしかなかったね。その中でも1番びっくりだったのが、阿久悠先生の歌詞が縦書きに毛筆で書かれていた歌詞カード!当時、何もわからない若者だったけど先生の熱が気持ちが想いがその筆に乗り移った如く言葉の力強さはビンビン感じたね。
草野:怖そう…
竹内:先生の作業場にも伺ったことがあったけど、広いリビングに畳の敷いてある部分が中央にあってね。その真ん中に阿久悠先生の作詞をする机と座布団があって硯、筆、そして歌詞カードの最後にサインのかわりに本当にジャガイモで作ったみたいな先生の名前の芋版が並んでてさ。
山下:ホントに怖そう…。
竹内:その周りに打ち合わせに伺ったメンバー、事務所のスタッフ、メーカーディレクター全員が板の間に正座してお話するっていう。その時は大胆にも歌詞の修正のお願いだったんだけど、バンドのコンセプトからPVのイメージまで事細かに説明して、ある部分だけそれにそぐわないということで変更していただけないでしょうか?というお願いを恐る恐るディレクターさんが話していたのがひしひしと伝わってきたね…。
石丸:ディレクターの仕事も骨が折れるものです…。
竹内:緊張の時~そこから沈黙の30分。若輩者の自分は足がシビ切れてきて、なんなんだこの時間は?えっ?このまま待つの?マジか!?変な汗出て来た…そして先生は眉間にしわ寄せながら目をバチっと見開き、筆をとると歌詞カード(半紙)のその部分に線を引き、違う言葉を書き込みその部分に訂正印のように芋版をバンッ!と捺して 「これでどうかな?」って。次の瞬間、みんな一斉に「ありがとうございました!」と叫びその場を失礼するのでした!
山下:いやー…こういう経験は若い時代にしておくに限るな…
竹内:足がシビ切れて動けない…でも無理やり引きづり出されて外に出たよ。歌詞を直すってこんな大変なことなのか!?とびっくりしながらも 作詞家の仕事の重さを感じる瞬間だったなあ。
石丸:この時の経験が今に生きているのですね。
竹内:ミュージシャンしか見ていなかった自分に初めて、作家さんの存在感、信念、拘り、パワー感を感じずにはいられなかったね。
― 皆さん紆余曲折あったと思うんですが、やっぱり音楽とは、離れたくないと…。
竹内:本当はバンドとして、自分たちの好きな音楽だけで、というのはあるんですけど、それだけじゃムリなことにい気付いて、プロとしてはミュージシャンを目指して行くっていう少しこう、路線を変更していったんですよね。
― 純粋に、「俺、音楽で食べていきたい!」って思った瞬間は?
山下:アマチュアバンドやりながらバイトしていた頃、ビアガーデンに半年くらいベタ付きの仕事があって、新宿のマイシティの屋上でね、オールディーズバンド。とりあえずオーディション受けたら受かっちゃって、バイトよりギャラいいし、音楽で食っていけるんだ~って。昼くらいに入って夕方までバンドで練習して、夕方からお客さん入ったら、わーって本番演奏して一日中楽器弾いてお金もらうわけだから、そういう体験したらやっぱりこの世界でやっていきたいなぁって思いましたね。
― お金を稼いだ原体験?
山下:何となくね、これでお金がもらえるんだ~っていう。
竹内:まあ、でも楽しいのは最初だけだよね、カバー曲の演奏って。
山下:そう、最初だけ楽しいの。だんだん上には上がいるってわかってきて…。単にハコバンだけならそれで終わっちゃうから、やっぱりレベルアップしないと!ってね。
― 社長も20代はバイトですか?
竹内:そうですね。デビューしたバンドも解散しちゃって、車の搬送とかやってましたよ。そうしているところにバブルの時代へ突入で、生演奏する店が六本木界隈にすごくたくさんあったんで、あちこち回って。
― ミュージシャンとして?
竹内:そうですね。生演奏で結構、稼いでましたね。一日ワンステージで1万円くらい。それを夜帯と深夜帯と違う店でやって倍もらって、でもそれより儲かるのが、飲みにきた高そうなスーツを着たおじさんから「ビリー・ジョエルやってくれ」って言われて、演奏すると、ありがとうな!ってメンバーに2万円ずつくれたりする(笑)あー、これがバブルなんだーって思って(笑)
山下:そういう時代です。
竹内:そう、それが崩壊した後が結構、苦労しましたよね。
― 草野さんは?
草野:やっぱり若い時はスゴイですよね、聴きまくってますし、高校の時とかギターとかコピーをしてて、次の日テストで英語覚えなきゃいけないけどヘビメタ聴いて睡眠学習してる…みたいな。もう意味わかんない(笑)寝てる時も、ヘッドホンつけたままだし、英語覚えて一緒に歌ってたり。多分、高校とか大学の時くらいが一番、純粋な気持ちの面白さ、プロとしてじゃなくて。それで、この人たちと知り合って、また違うジャンルも勉強して新しいものを吸収しなきゃってわかって、それはやっぱり楽しくて大学行ってたけど、おかげで行かなくなっちゃって、すごい練習をしたんです。全然レベルが違ったので、みんなと。で、一所懸命やってる自分に酔いしれてたり(笑)マネージャーさんに「草野、ちょっと良くなったじゃない」って言われると純粋にうれしかったし、努力した分だけ成長があれば、すごく楽しいなぁって。それが、20歳前後くらい。
ー僕も文章書く仕事で明け方とか書いててすごくクリアな気持ちになることがあるんですけど、そういうのって…。山下:ありますよ、それは。すごくハイテンションになってね。
― 真っ白みたいな。
山下:一度そういう感覚を味わっちゃうとね。なかなか、普通の人に戻れないと思うし。
竹内:曲作ってた頃はオレ、自分が作ったもの常に満足しなかったね。ちょっとスキルが上がれば、今度はこっちを上げて次はこっちを上げて、その繰り返しですよ。ミュージシャンの人に聞くとみんなそうですけど、やっぱり反省と成長の繰り返しみたいな。それが結構、一番しんどかったですよね。音楽を続けていく中で…。